「人は何のためにいきるのか」 2007年06月19日更新
最近生徒に「人は何のために生きるのですか」と聞かれて返答に窮す先生が多いそうだ。ひと昔前なら、お国のお役にたつために生きるのだよと答えてすべて終わりだったろう。しかし現代ではこれは通用しない。そこでもっともらしい答えを捜すのだが、これがなかなか難しい。
先生がこのように困ってしまうのは、なにか恰好の良い答えを見つけようとするからではなかろうか。人間だから他の動物とは違う生きる事の意味を持っていなければならないと思うのだろう。しかし本当にそのようなものがあるのだろうか。この質問に答えるには、なにも人間だけではなくあらゆる生物が何のために生きているのかを考えれば自然と答えが出てくるのではないか。
今現在地球上に存在しているあらゆる生物が一様に行っていること、それは自らの種の保存行為である。植物は花を咲かせ種を結び、その種から新しい命が芽生える。動物は卵を産んだりあるいは受胎することにより、自らの種が絶えることのないように最大限の努力をする。そして人間も同じ動物として同じように生きていると考えたらどうだろう。
つまり現存の個人は大祖先から十数万年にわたって繋がっている長い鎖の一番下にある輪であり、今その輪が存在するのはこのような長期間にわたって祖先たちが一つひとつ輪をつなげる努力をしてきたからである。したがって現存の個人がするべきことは、自分の次の輪を追加することである。これをしないとその長い鎖はここで途切れることになり、以後修復することは不可能となって長い間の祖先たちの努力が水泡に帰する事となる。
自分の存在は祖先から引き継がれたものであり、自分の役目は鎖を子孫に引き継ぐことである。こう考えれば自然と祖先を敬う気持が生まれるだろうし、また子孫の繁栄を願う気持も出てくるだろう。これが人間にとって最も大切なことだと思う。最近の日本人はこの長くつながる鎖を意識することがないようだ。あたかも自分が一人で生まれてきて一人で死んでいく、つまり自己完結的に考えている人が多いようだが、この考えは浅すぎる。
リレー競走にたとえれば前走者からバトンを引き継いでこの世を走り、そのバトンを次走者に引き継いで終る。自分が走る区間は短いが、しかしこの区間を走りきってバトンを次走者に渡さない限りこのレースは成立しない。自分に与えられた区間を全うしてレースの継続のために一役果たすことこそが、我々の生きる目的ではないのだろうか。無論我々人間は他の生物と違って優れた頭脳を持っているから、この原点を踏まえたうえで自らの人生に様々な修飾を施すことができる。
(一本杉)