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「所得格差」 2006年04月04日更新

小泉政府が進めてきた改革路線の結果の一つとして、所得格差の拡大が指摘されている。ある調査によれば国民の実に87%がこれを感じているそうだ。
たしかに昭和40年代を中心にした時代の国民意識調査では、毎回国民の8割 以上が自分を中流階級だと思うと答えていたのだから、随分と世の中が変ったものである。しかし考えてみると8割以上が自分を中流だと思っている社会が正常なものといえるのだろうか。

思えばあの頃は戦後の苦境からようやく脱して経済も成長を続けており、まだ貧しくはあったが過去と較べれば現在の暮らしはずいぶんと豊かになったと皆が実感していた時代である。そして今日よりは明日の方がすべてがうまくいっているだろうと予感していた時代でもあった。つまり皆がこれまでの自分の成果にある程度満足しており、中流に位置していれば全体の追い風に乗ってその恩恵に与れると考えていたのだろう。8割の中流意識はこうした時代背景の上に立っていたのである。

しかし今は経済も成熟化し国民全体を運んでくれる追い風は存在しない。こうした時代では、国民は自分で考えそして行動して自分の未来を自分で掴みに行くしかないのだ。その当然の結果として、個人の所得の格差はその運と努力の程度により大きな開きを見せることになる。これはなにもおかしなことではない。中流が圧倒的な社会が本来の姿だと思うほうが時代錯誤を犯していると云えよう。それに所得格差が開いていると云っても諸外国のそれと較べればまだまだほんの僅かなのであり、国際感覚でものを云えば格差はないに等しいのである。

ところでこのような社会の変化は、日本の将来に明るい兆しをもたらしてくると思う。個人が自分の力で自分の未来を築いて行くようになれば、個人間の切磋琢磨が促進され全体的な能力の向上につながるだろう。リスクを乗り越えて進む勇気を持った人が増えれば、まちがいなく社会は活性化する。勿論すべてが成功するわけではなく失敗する人も沢山でるだろうが、そうした人に対してはチャレンジした勇気を評価し失敗から学んで次の機会での成功に繋げるよう励ますような社会にならなくてはならない。すでに死語となってしまったかのように思える「勇気」という言葉が復権することを願って止まないのである。

(一本杉)

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